照り返す⇄思い返す


これはたしか最初で最後のマタニティドライブ(第一子について限るため、まだこれから出産があった場合はさておいて)の時だったと思うんだが、ちょうど辰髪(たつがみ)町の交差点を超えて長い朝の通勤渋滞に捕まったところだった。

朝のラクティスからは溜まった熱気がやっとこさ外へ流れ出てゆき、車内のエアコンも静まり始めたところだった。昔は実家のプリウスをよく借りていた関係から非ハイブリッド車のエンジン音に驚いてしまい、それにあわせて音楽のボリュームをやたらと上げてしまう癖ができてしまったと思う。僕が運転するときはよく妻が無言でボリュームを下げるので、(バレないように)カーブを切る時にハンドルのリモコンでボリュームをぽちっと上げている。
今日は僕が助手席なのでカーナビについている音量を上げられず、CDは流れっぱなしになっている。エアコンが静まったおかげで、3曲目がフェードアウトしていくのがハッキリと聞き取れた。普段の車内BGMは僕に選択権があったのに、今日に限ってはハンドルと一緒に妻に握られている。そもそも首が痛いしあまり動きたくないのでどちらでもいいのだけど。
しかし送り迎えの20分のためにわざわざCDを持ってくるなんて彼女にしては珍しいと思ったので、少し驚いた。それだけ久しぶりの運転に気合が入っているのかと思っていたのだが、彼女がかけたCDは名古屋の不思議なバンドのCDだった。
「4」と名付けられたそのCDはコンセプト上4枚目らしいのだが、3枚目のあまりの難しさに先に4枚目が出来てしまったとのことだった。
辰髮の信号から5分経ったのに進んだのは200m程度で、遅々という使い慣れない二文字が頭に浮かんだ。(もちろんすぐに乳も浮かんだ)。こんな時に産気づいたらどうすればいいのかなとも思うべきなのかなと、あとあと思ったのだが、でもまあ結局予定日はまだまだ先だったし結果的には無事に生まれたしいいかなぁ、と結局はあとあと思っていると思うのだ。
「私、職場に復帰するとして、こっちの方面の支店になったら毎朝これかな。」
曲と曲の合間に彼女が口を開いた。彼女の緊張した横顔で眺め、そしたら最悪だね、と首が回せないので体ごと回して答えた。最近は常にどこかにスイッチがあり僕はそれを常に踏んでしまうのだが、彼女は本当に大人で僕が踏んだまま何事もなかったかのように振る舞う。嫌味でもなく本当に助かっていると思う。ただ首が回せずに体だけ回したところにファインプレーがあったと思うのにそれを評価する第三者がいなかったのは、首と並びいままさに痛いところだと思う。
いててて、と首を痛めないように体をゆっくり体をふり戻していく途中、運転手席側の窓の向こうから、一瞬光が照り返した。
眩しさに目が眩み、反射的に身体を少し反ったが、それはどう考えても首にとって面白くない動きだった。
激痛に対して左手を添えて、何も言えずにいる。あまりの痛さにうつむいて前も見られないまま、音楽はギターによる機械的な2拍3連を繰り返す。もう一本の歪んだギターは深いショートディレイが波打ち際のようなメロディーを鳴らし、まだまだ増し続けるディレイで重なる音色に楽曲は包まれ、首の痛みと共にじんわりと深く暖かい場所が広がっていく。
ぽーーーーうーーーー
気の抜け切ったシンセサイザーが曲調を変えた。別の星にたどり着いたようだった。
ふふっ、と妻が鼻で笑ったのがわかった。すこし首の痛みが和らいで顔を上げた。彼女はまっすぐフロントをにらみ運転している。
僕はさっき目が眩んだ窓の向こうを眺めた。煉瓦造りの辰髪健康支援センターの窓がちらちらと反射していた。
2Fのその窓から、吉田院長先生がひとりジャージを着て体操をしていた。大きく動くたびにキラキラの金時計がこちらに照り返しているのかもしれない。
今気づいたのだが、先生の動きはこの4曲目のリズムと、なんというか、完全にあってしまっている。体を左右に大きく振る運動なんてまさに。「それで笑ってたの?」と尋ねたが黙ったままだった。
そういえば昔からこの人は音楽と周りの風景がぴったりあっているだけでよく笑う。シリアスな曲がかかっている時に、歩道を全速力で走っている人がいると笑う。そのせいか僕まで笑うようになってしまった。
まだ僕達が付き合って間もない頃、「こういうリズムの曲は猫が走ってるみたいだね」と突然行った時は本当に驚いた。
Sondre Lerche のgo right ahead に合わせ、彼女は相変わらずの無表情のまま前足をセカセカ動かし始めた。
それ以来、猫の走るタイプの曲に出会うと二人で前足をセカセカするのだが、そういう時に限ってぴたりのリズムで走るランナーを見つけてしまった。二人で鼻をひくつかせ笑っていた気がする。「次のアルバムにもこんな曲が入っていたらいいんだけど」
よくこの運転技術で笑う余裕があるなと感心したのだが、彼女はまだ少しだけふふ、と鼻の穴をひくつかせていた。
健康支援センターからやっと50m進んだころに、曲が終わった。彼女が無表情に戻ったことを確認しようとしたところ、右斜め前の小畠産業の辰髪営業所前で3列になった従業員たちが一斉に前かがみになったのに気づいた。
ぽーーーーーうーーーーー
終わったと見せかけただけのその曲の、シンセサイザーととも戻って来たそのリズムに合わせ、3列に並んだ小畠産業の従業員たちは腕を大きく開き、一斉に横に揺れ始めた。辰髪の渋滞を抜けるのにあと7分はかかったけど、僕達はサイドミラーを眺めながらずっとクスクス笑ってた。