横断とすれ違う首根っこたち


電車通勤に変えたのは、肩の痛みがひどくて遂に首が回らなくなったからだ。

通勤の運転中に左右確認をしたら右首付け根に激痛が走り、まさに叫びそうになった。なによりだったのは横断歩道を渡っている老人を轢き殺さなかったことで実際奇跡だったと思う。横断歩道前で止まり、僕が左手を痛みの元に添えている間に老人はゆっくりゆっくり杖を突いて通り過ぎてった。
殺人未遂翌日は妻にマタニティドライブをお願いした。が、膨らんだお腹をこする彼女のハンドリングではこのまま家族3人顔を合わせられずじまいになりそうで、仕方なく電車通勤にした。少ししたら首も治るだろうよ、と洗濯物を畳む妻に言ったのだが聞こえてないのか、運転を断られて怒ったのか、返事はなかった。
駅までは徒歩7分ほどで、丘の中腹に並ぶこの山ノ手団地から緩やかなカーブの坂道を下って行くと、大きな交差点にぶつかる。交差点に横断歩道はなく大きな歩道橋が四つ角それぞれに股をかけており、対角線先にL字にわたり、点滅信号付きの小さな交差点を超えると杜若(かきつばた)駅だ。
駅前の点滅信号交差点は小学生の通学ルートで、毎朝交代のお母さんたちがまっすぐに伸ばす黄色い旗に沿って小学生の一団が縦断する。
連なった通学班は途切れることなく続き、通勤サラリーマンたちは向こう側で踏切音鳴る駅に今まさに到着する電車に焦らされ、おっとっと…と、この行列をくぐり抜けてくる。僕はいつも早めに駅に着くので、それをプラットフォームから眺めている。この行列事故に重ならないよう3分早く出るようにしているからだ。
むしろ僕の嫌なのは交差点の歩道橋の方だった。
この歩道橋では朝から二列でだべりながら進んでくる中学生とすれ違わなければならない(それも自転車を引いてる奴までいる!)。
言わなくていいことは書かないので、まあ、あえて書くが、僕の鼻は、あの、「中学生の汗の匂い」が、なんというか、嫌いだ。それも朝から、首の向きも変えられず、男女問わず、接近して、時には何連続も。
そんな時に裏道を発見したわけだから、まさに天に向かってユリイカと叫びたかったわけだ(もちろん首が痛いのでしないわけだが)。
ただし、裏道の欠点は3つ。
①坂を登り団地裏を回るので、疲れる ②竹林を横切るので、蚊に刺される ③徒歩10分。
①③に関して言えば我慢できるのだが、②の予防として出勤前に虫刺されスプレーを脛にかけている僕に対して、妻はお腹に手を添えながら、いってらっしゃい気をつけてねとだけ言ってくれる。
嬉しそうにこの裏道発見を伝えた日から妻は別段「中学生の汗の匂い」に触れないでいてくれているのは、理解ある妻を演じたいのか、それとも僕にはまだ眠っている変態異常性があって新しい家族を守る術を考えているのかもしれない。正直どちらでもいいし、どうせ僕の弁解も言い訳も聞かないし、それに娘の名前の意見だって聞きはしないだろうし。
竹林を通り抜けると言っても、松谷秀五郎生家跡(現・公園)の敷地にわずか残っているだけなので、通り抜けるのは難しくないのだが、朝からジメジメするし朝にしては暗い。竹が鬱蒼として真っ暗な公園東口に松谷秀五郎氏の胸像が忘れられたまま立ち尽くしている。
一度夏休み時期に中学生が秀五郎氏の胸像裏でエロ本をあさっていたのに遭遇したことがあったが、松谷氏が戦後日本の歌舞伎作家をパトロンとして支え続け文学史にも名前を連ねるほどとは知らず、というか知っていたところで、彼らにとって何一つ関わりもないわけで。横を通り過ぎてから気づいたのだが、竹箒を掃く老体が中学生を睨んでいた。あとあと妻に聞いたのだが、彼は宮下さんという方で、幼いころ松谷家に奉公しており現在は近所で有名な変わり者らしい。
理由はどうこうわからないが、翌日から宮下さんの金属バットの素振りの音が聞こえるようになった。素振りの音から50mほどであの点滅信号交差点を右折すれば杜若駅で、黄色い旗を今日のお母さんが振り下ろした。